売茶翁とは—煎茶道の祖とされる人物の生涯と功績

売茶翁(ばいさおう)は、江戸時代中期に生きた煎茶道の中興の祖とされる人物であり、その本名は高遊外(こうゆうがい)です。彼は、煎茶の普及とその文化の発展に大きな影響を与えました。この記事では、売茶翁の生涯、彼の功績、そして彼が煎茶道に与えた影響について詳しく解説します。

売茶翁の生涯

売茶翁は、1675年に肥前(現在の佐賀県と長崎県の間あたり)で生まれ、鍋島藩(現在の佐賀県)で育ちました。11歳のときに黄檗宗の龍津寺に入り、月海元昭の名前を名乗り全国(有名なところだと仙台の大年寺萬寿寺などが文献で残っています)を仏道修行のため行脚しました。そして享保16年(1731年)には57歳で寺を去り、上洛しました。その後、晩年には高遊外と改名しましたが、一般的には「売茶翁」として知られています。

享保20年(1735年)、61歳のころに東山に初めての茶亭「通仙亭」を設け、ここで煎茶を販売しながら生活を始めました。東山の具体的な位置については資料により異なり、清水の産寧坂(三年坂)を上がって東に進んだ角や円山公園の周辺、または九条通り付近の鴨川の川辺などが挙げられています。また、東福寺の通天橋下鴨神社の「糺の森」仁和寺、嵐山の渡月橋など、京都の名所でも煎茶を販売していたようです。

宝暦5年(1755年)には、長年使用していた茶道具を焼却し、煎茶を売る生活を終えて、京都の岡崎で余生を送りました。最終的には、宝暦13年(1763年)に三十三間堂(蓮華王院)の南に位置する幻々庵で亡くなりました。

売茶翁が茶を売ることを選んだ背景には、単なる商売以上の意味がありました。彼は、茶を売る行為を通じて、真の人間関係を築き、豊かな精神文化を広めたいという強い思いを持っていました。彼の茶屋は、単なる商店ではなく、文化交流の場として多くの人々に愛されました。その崇高な精神性から、隠元禅師石川丈山らと共に、煎茶道の祖と呼ばれています。

参考…レファレンス協同データベース「レファレンス事例詳細

売茶翁ゆかりの地域

京都の東福寺

京都の三十三間堂

佐賀の龍津寺

京都の世界遺産・下鴨神社

宮城県仙台市の大年寺

京都の世界遺産仁和寺

宮城県仙台市「売茶翁」

売茶翁と文人文化

売茶翁の時代、江戸時代中期は、文人文化が花開いていた時期でもあります。売茶翁自身も文人たちと深い交流を持ち、その影響を受けていました。彼の茶室には、多くの文人墨客が集まり、詩を詠み、書を描き、茶を楽しむ場となっていました。これにより、茶が単なる飲み物以上の文化的象徴として位置づけられるようになりました。彼の教養の高さ、自由な生活スタイル、機知に富んだ語り口が人々を惹きつけ、伊藤若沖与謝蕪村、渡辺崋山、松平定信、田能村竹田八橋売茶翁(方巌)などの名だたる人物たちに影響を与えました。

参考…Science Portal China「売茶翁の煎茶道

「高遊外」の由来

売茶翁は僧侶として「月海元昭」の名を持っていましたが、ある時、彼の現在の暮らしぶりについて尋ねられた際に「こういう具合に暮らしています」と答えたところ、「こう優雅に暮らしています」と聞き間違えられることがありました。これを面白く感じた売茶翁は、「こう優雅に」をもじって「高遊外(こうゆうがい)」という名前を名乗るようになったと言われています。

茶の魅力を広める姿勢

「通仙亭」の看板には、以下のような文言が記されていました。

「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい、ただにて飲むも勝手なり、ただよりほかはまけ申さず」

これは「茶銭は小判二千両(現在の一億円以上)から半文(約30円)まで、いくらでもいただきます。ただし、無料でお茶を提供することも可能であり、ただより安いものはありません。」という意味です。

この言葉からは、売茶翁が茶の良さを知ってもらうことを最優先に考えていた姿勢が伺えます。

参考…文化庁「令和5年度 生活文化調査研究事業(煎茶道) 報告書

新たな「煎茶」の普及

売茶翁は、権力に依存し形式的になった当時の茶の湯に疑問を抱き、唐の陸羽廬同が理想とした「清風の茶」を目指しました。不要な作法や装飾を排除し、シンプルな茶の楽しみ方を提唱した彼のスタイルは、庶民の間にも広まりました。

茶道具への愛情とその後

売茶翁は年を重ねた後、煎茶の販売をやめた際、長年使用していた茶道具を自ら焼却しました。この行為には、共に過ごしてきた茶道具への深い愛情が込められていました。彼は「これらの茶道具は私を支えてくれた。しかし、もう使うことはできない。私が死後、これらが他者に辱められるくらいなら、自ら火葬にしてしまおう」との気持ちを残しています。

売茶翁が残した影響

売茶翁の影響は、煎茶道だけに留まりません。彼が提唱した「茶を通じた精神交流」という理念は、多くの文化人や庶民に受け入れられ、日本の茶文化全体に大きな影響を与えました。今日でも、煎茶道の愛好者は、売茶翁の精神を受け継ぎ、その教えを大切にしています。現在の煎茶道の道具も、売茶翁の茶道具から影響を受けています。

さらに、売茶翁が強調した「茶は心を通わせる道具」という考え方は、現代の日本文化においても広く受け入れられています。彼の影響は、日本の茶文化全体に深く根付いており、茶の精神文化としての価値を高めました。

参考…国文学研究資料館「売茶翁の人物像―山東京伝『復讐煎茶濫觴』を通して

売茶翁の思想と現代への継承

売茶翁の思想は、現代においても色褪せることなく受け継がれています。彼の「茶を通じた人間関係の深化」という理念は、現代社会においても重要な教えであり、多くの茶道家や文化人に影響を与え続けています。煎茶道は、形式にとらわれず、茶を通じた人々の心の交流を重視する点で、現代のライフスタイルにもマッチしています。

また、売茶翁が重視した自然体の美しさや茶具へのこだわりは、煎茶道の流派の名称や人々の考え(例えば仙台市には売茶翁の考えに感銘を受けた売茶翁という名の和菓子屋がある)にも影響を与えています。彼が提唱した「茶の心」は、今も多くの人々に受け継がれ、その魅力を伝え続けています。

売茶翁の掛軸

売茶翁は後世にも大きな影響を与えました。

例えば明治最後の文人と言われた富岡鉄斎は、東福寺で茶を淹れる売茶翁を掛軸に描いています。

まとめ

売茶翁は、単なる茶人ではなく、日本の茶文化に多大な影響を与えた人物です。彼の「茶を通じた精神交流」という理念は、現代においても重要な教えであり、多くの人々に愛され続けています。売茶翁の遺した功績や思想は、売茶の場を「サロン」とし、多様な人々が集まる交流の場としての成功を収めた彼の試みは、今日においてもその影響が色濃く残っています。これからも煎茶道や日本文化の中で生き続け、次世代へと受け継がれていくことでしょう。

投稿者プロフィール

東叡庵
東叡庵煎茶講師/日本文化PRマーケター
宮城県出身。
仙台の大学卒業後、500年の歴史を誇る老舗和菓子屋に入社。京都にて文人趣味や煎茶道、生け花、民俗画を学び、日本文化への造詣を深める。和菓子屋での経験を活かし、その後、日本文化専門のマーケティング会社でブランディングとPRマーケティングに従事。現在はフリーランスの茶人として活動しながら、日本文化のPRサポートや「みんなの日本茶サロン」を主宰。伝統と現代を結びつける活動を通じて、日本文化の魅力を広めている。みんなの日本茶サロン編集長。
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