田能村竹田とは
田能村竹田(たのむら ちくでん、1777年7月14日 – 1835年10月20日)は、江戸時代後期に活躍した南画の文人画家です。彼は豊後国直入郡竹田村(現在の大分県竹田市)に生まれ、その独特な画風と多彩な文人活動で広く知られる存在となりました。
幼少期と教育
田能村竹田の幼名は磯吉で、後に玄乗、行蔵と名を変えました。彼の生家は岡藩の儒医であった田能村碩庵の家系で、武士の家柄とはいえ、俸禄は12人扶持と非常に少なく、藩の財政難もあり実際の収入はその半分程度でした。竹田は幼い頃から学問に励み、6歳で素読を始め、11歳で藩校の由学館に入学しました。彼の詩の才能は、師である唐橋君山によって早くから見出され、詩文結社の同人に迎えられました。
煎茶道と田能村竹田
田能村竹田は文人趣味に傾倒しており、煎茶道(煎茶趣味)にも精通していました。
煎茶道を語る上で、売茶翁や石川丈山、隠元禅師はもちろん、竹田を外すことはできません。
自著の「泡茶新書三種 竹田荘泡茶訣」や「山中人饒舌」、「石山斎茶具図譜」には煎茶趣味に関する記述があります。
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みちのくせんべい|売茶翁
参考…大分県立美術館
画家としての道
竹田は18歳のときに母と兄を亡くし、その後は家族の責任を背負いながら画家としての道を歩み始めます。地元の画家である淵上旭江に絵を学び、さらに江戸にいる谷文晁から通信教育を受けることで、その技術を磨いていきました。彼は22歳で由学館の儒員として出仕し、最終的には頭取にまで昇進しましたが、医業を辞めて学問に専念することを決意します。
京都と大坂での活動
享和元年(1801年)、竹田は豊後国志の編纂に携わるため江戸に下向し、その途次に大坂の木村蒹葭堂を訪ねました。江戸では谷文晁との交流を深め、文化2年(1805年)には京都で儒学を学ぶために遊学し、その後も各地で画家や文人たちと交流を持ちました。この時期に彼は、浦上玉堂や岡田米山人、頼山陽といった著名な文人たちと親交を深めました。
文人画の発展と晩年
竹田は37歳で藩から隠居が認められ、以後は豊後と京阪を行き来しながら、文人としての活動を続けました。彼は元末四大家や宋代の米友仁を敬愛し、多くの人物との交流を通じて様々な画風を学びました。これにより、山水図や人物図、花鳥図といった幅広いジャンルで秀逸な作品を生み出すことができたのです。
晩年になると、竹田はさらに繊細で味わい深い画境に達し、多くの傑作を残しました。彼の作品は日本各地の美術館や博物館に所蔵されており、特に出光美術館には約200点、大分市美術館には45点が収蔵されています。
代表作と重要文化財
竹田の代表作には「花卉図」や「四季花鳥図」、「雁来紅群雀図」などがあり、これらは大分市美術館に収蔵されている重要文化財です。また、「梅花書屋図及題詩」や「秋景山水図」なども同様に評価されています。竹田の作品は、その写実的な描写と文人画のエッセンスを融合させたもので、文人画史において高い評価を受けています。
著作と文人としての貢献
竹田は筆まめで、多くの著作を残しました。中でも『山中人饒舌』は日本の文人画史や画論として広く読まれ、『屠赤瑣瑣録』は文人趣味に関する貴重な資料となっています。また、『竹田荘師友画録』は彼の師友となった104名の人物評伝を収録しており、文人画家としての竹田の深い人間関係を垣間見ることができます。
竹田の遺産
竹田は1835年、大坂の藩邸で59歳の生涯を閉じましたが、彼の遺産は今なお日本各地で受け継がれています。彼の弟子である高橋草坪や帆足杏雨、養子となった田能村直入もまた、竹田の影響を受けて画家としての道を歩んでいます。
田能村竹田は、文人画家としての高い評価を得るだけでなく、多くの著作を通じて日本の文化に大きな影響を与えました。その遺産は、現代においてもなお多くの人々に愛され続けています。