八橋売茶翁とは

平安時代の八橋と杜若

平安時代に『伊勢物語』第九段(通称:東くだり)で、在原業平とされる「おとこ」が美しく咲き乱れる杜若(かきつばた)を見て、各句の頭に「かきつばた」の五文字を使って歌を詠んだことが広く知られています。この八橋(現在の知立市八橋町)は、平安時代以降も多くの旅人が訪れる名勝地であり、紀行文や浮世絵などに頻繁に登場しました。現在でも、杜若の咲く八橋(無量壽寺)は全国的に有名で、盛りの5月には多くの観光客で賑わっています。

八橋売茶翁の訪問と再興活動

江戸時代の文化2年(1805年)、「売茶流」煎茶道の流祖である八橋売茶翁(ばいさおう)はこの地を訪れました。しかし、当時の八橋は荒廃しており、『伊勢物語』に描かれた情景とはかけ離れていました。これを憂いた八橋売茶翁は、八橋の再興に尽力しました。今日の八橋の姿があるのは、八橋売茶翁の功績が大きいと言われています。平成29年は八橋売茶翁の没後190年にあたるため、その生涯と功績を再び振り返る良い機会です。

初代売茶翁との出会い

八橋売茶翁(本名: 方巌、字: 祖永、曇熙、号: 売茶翁)は、宝暦10年(1760年)に筑前国の福岡藩主笠原四郎衛門の三男として生まれました。幼少期に両親を失い、兄弟姉妹も次々と亡くなるなどの不幸に見舞われました。また、大雨や洪水、干ばつなどの天災により村が甚大な被害を受けました。その後、久世家の養子となり、18歳頃に長崎黄檗宗崇福寺に身を寄せました。ここでは、中国清国の文化に触れ、書や詩、音楽を学びました。 27歳頃に上京し、臨済宗妙心寺に入山し本格的に禅僧としての修行を始めました。修行中に煎茶道を確立した高遊外売茶翁(初代売茶翁)の奇想天外な生き方に感銘を受け、相国寺の大典禅師から煎茶道を学び、印可を受けました。高遊外売茶翁は、京都東山で禅の教えを説きながら茶を売る生活を始め、移動茶店として茶を煎じて売っていました。高遊外売茶翁と八橋売茶翁は生きた時代が異なりますが、八橋売茶翁はその奥義を学び、伝承しました。

江戸での活動と八橋への帰還

寛政の末頃(1796年)、37歳の八橋売茶翁は仏道修行のために江戸に出て、梅谷(現在の上野付近)に住むようになりました。茶店を開いて道行く人に茶を施したり、上野寛永寺を訪れる人たちに煎茶を提供したりしました。上野寛永寺は参拝者が増し、八橋売茶翁の茶店も注目されるようになりました。上流社会や文化人との交流も増え、江戸付近を遍歴しながら煎茶道を広めました。 46歳の春、名が広まった八橋売茶翁は、一つの茶笈を背負って江戸を後にし、三河八橋に旅立ちました。9月22日に池鯉鮒(知立)の八橋に到着しましたが、その頃の八橋は荒れ果てており、業平の時代の面影はありませんでした。在原寺も無住で荒れていました。八橋売茶翁は、まず在原寺の再建を庄屋彦五郎に願い出て、数年後に浄財を集め再興しました。その後、無量壽寺の再建を村人から頼まれ、全国からの協力を得て本堂や庭園の改築を行いました。

売茶翁の遺志と後継者

八橋売茶翁の煎茶道の教えは、友仙窟(ゆうせんくつ)が引き継ぎ、初代家元として大正初年に名古屋市の浄元寺に移り、「売茶流煎茶道」を確立しました。現在、四代家元へと引き継がれています。

「通仙」の由来

方巌の憧れの人である高遊外が京都で開いた茶店の名前が「通仙亭」でした。この「通仙」という言葉はどこから取られたのでしょうか。中国唐代の文人、盧こう(?~835)が孟簡から新茶を送られた際に詠んだ詩「筆を走らせ孟諌議の新茶を記するを謝す」に由来します。
詩の内容:
  • 一椀 口吻潤い: 一杯飲むと喉が潤い、
  • 二椀 弧悶を破る: 二杯で悩みが消える、
  • 三椀 枯腸を捜るに、唯文字五千巻有るのみ: 三杯目で胸中が五千巻の文字で満たされる、
  • 四椀 軽汗発し、平生不平の事、尽く毛孔に向かって散ず: 四杯目で軽い汗が出て、不満が毛穴から消える、
  • 五椀 肌骨清く: 五杯目で全身が爽やかに感じる、
  • 六椀 仙霊に通ず: 六杯目で神仙の境地に達する、
  • 七椀 喫するを得ず、唯覚ゆ両脇に習習として清風の生ずるを: 七杯目は飲むことができず、清風が両脇を通り抜ける感じがする。
この詩は煎茶を意図して詠まれたものではありませんが、日本の文人たちに特に好まれ、煎茶の精神を象徴するものとして評価されています。高遊外の「通仙亭」もこの詩の「六椀仙霊に通ず」から名付けられました。また、煎茶の祖とされる石川丈山の詩にもこのテーマが見られます。 売茶翁に興味を持たれた方はぜひ下記の記事もご覧ください。 みちのくせんべい|売茶翁 売茶翁とは