仙台の高僧「月耕道稔」とは?煎茶道の祖「売茶翁」との関係や生涯を解説
売茶翁に影響を与えた月耕道稔とは?
「煎茶道の祖」として知られる売茶翁。その独自の境地を開くきっかけを作った人物の一人に、月耕道稔という禅僧がいます。 月耕は、売茶翁がまだ若い頃に師事した禅僧であり、その後の売茶翁の生き方に大きな影響を与えた人物として知られています。 今回は、そんな月耕道稔の生涯とその人物像について、売茶翁との関係性を交えながら解説していきます。
月耕道稔の生涯
月耕道稔(1628-1701)は、江戸時代前期に活躍した臨済宗、のちに黄檗宗の僧です。尾張国(現在の愛知県)に生まれ、幼い頃に仏門に入り、雲居希膺という高僧に師事しました。 月耕は、師である雲居に従って各地で修行を積み、京都の妙心寺では首座という重要な役職を務めたほどの実力者でした 。その後、師の雲居が松島の瑞巌寺の中興開山となったことをきっかけに、月耕もまた瑞巌寺へと移り、雲居の晩年を傍で支えました。 雲居の遷化後は、仙台藩主・伊達綱村の推挙により妙心寺に戻り、再び首座を務めた後、瑞巌寺の末寺である永安寺の住持に就任します。
月耕は50歳の時に、黄檗宗の大本山である萬福寺に登り、黄檗宗に改宗します。そして、黄檗宗の高僧である木庵性瑫に師事し、その教えを深く受け継ぎました。 その後、仙台に戻った月耕は、伊達綱村の帰依を受け、1696年、綱村の正室・仙姫の菩提寺として創建された万寿寺の開山に迎えられました。 月耕は万寿寺の開山として、黄檗禅の普及に尽力し、多くの弟子を育てました。煎茶道の祖である「売茶翁」こと月海元昭もまた、月耕を頼って万寿寺を訪れた多くの弟子の一人でした。 月耕は1701年、74歳でその生涯を閉じました。
売茶翁と月耕道稔の関係
売茶翁こと月海は、1697年、19歳の時に月耕道稔の元を訪れ、4年間、月耕の弟子として禅の修行に励みました。 月耕は、厳しい中にも温かさのある人柄で、月海は月耕から禅の教えだけでなく、茶の湯や書画など、様々なことを学びました。 月耕自身、煎茶を愛し、弟子たちにも振る舞っていたと言われています。 月耕は、売茶翁が後に「煎茶の祖」と呼ばれるようになるほどの、茶に対する深い造詣を育んだ人物の一人と言えるでしょう。
月耕は、売茶翁に対して大きな影響を与えましたが、それは単に茶の湯の技術や知識を授けただけではありませんでした。 月耕は、禅の精神に基づいた、質素ながらも心豊かな生き方を売茶翁に示したのです。 売茶翁は、月耕の元で修行した経験を通して、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを重視する生き方を学びました。 そして、その経験が、後に売茶翁が「煎茶」という独自の道を歩み出す上で、大きな支えとなったのです。
まとめ
月耕道稔は、売茶翁がまだ若い頃に師事し、その後の生き方に大きな影響を与えた禅僧です。 月耕自身、高い人格者として知られており、厳しい修行時代の中でも、温かく、時にはユーモアを交えながら弟子たちを導きました。 売茶翁は、月耕から禅の教えだけでなく、茶の湯や書画など、様々なことを学び、精神的に大きく成長しました。
月耕との出会いは、売茶翁の人生にとって重要な転換期となり、その後の「煎茶の祖」としての活動の礎を築いたと言えるでしょう。
投稿者プロフィール
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宮城県出身。
仙台の大学卒業後、500年の歴史を誇る老舗和菓子屋に入社。京都にて文人趣味や煎茶道、生け花、民俗画を学び、日本文化への造詣を深める。和菓子屋での経験を活かし、その後、日本文化専門のマーケティング会社でブランディングとPRマーケティングに従事。現在はフリーランスの茶人として活動しながら、日本文化のPRサポートや「みんなの日本茶サロン」を主宰。伝統と現代を結びつける活動を通じて、日本文化の魅力を広めている。みんなの日本茶サロン編集長。
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