売茶翁と京都

売茶翁の京都での足跡:地域ごとの逸話と最期の地

売茶翁は、江戸時代に煎茶を広めた人物として有名ですが、彼がどのような生涯を送ったのか、詳しいことを知っている人は少ないかもしれません。 特に晩年を過ごした京都では、どのような活動をしていたのでしょうか?

売茶翁は、1675年に肥前国蓮池(現在の佐賀県佐賀市蓮池町)で生まれました。 11歳で出家し、月海元昭という僧名で仏門に入ります。 その後、禅の修行のため各地を巡り、60歳の頃に京都に移り住みました。

鴨川の畔:誰でもお茶を楽しめる「通仙亭」

京都での彼は、鴨川のほとりに「通仙亭」という茶店を構え、煎茶を広める活動を本格的に開始します。 自ら茶道具を担いで桜の名所や渓谷などを巡り、自然の中で煎れたお茶を人々に振る舞いました。

彼の茶店は、「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい、ただにて飲むも勝手なり、ただよりほかはまけ申さず。」という看板でも有名でした。 これは、現代の価値に換算すると「お茶代は一億円以上から30円までお気持ちで。無料で飲むのもいいし、値段交渉はしない」という意味です。 このことから、売茶翁はお金儲けではなく、純粋に煎茶の良さを人々に知ってもらいたいと考えていたことがわかります。

売茶翁は「通仙亭」で提供するお茶に鴨川の水を使っていました。鴨川は今も昔も京都の人々に愛されている川です。

東福寺:渓谷の自然の中で味わう一杯

売茶翁は東福寺の渓谷「洗玉澗(せんぎょくかん)」の水を汲み、その岩を台にしてお茶を淹れていました 。 紅葉の名所として知られる東福寺ですが、売茶翁は新緑の季節に、宇治の新茶を淹れていたそうです。

高台寺:名水で淹れる格別な一杯

高台寺では、裏山から流れる菊渓の水でお茶を淹れたという記録が残っています。 菊渓は、かつては野菊の咲く清流でしたが、現在はほぼ暗渠となっています。 高台寺に近い場所にある料亭「菊乃井」の名前は、この菊渓に由来しています。

法住寺:静寂の竹林に佇む茶店

後白河法皇ゆかりの法住寺では、寺の前の竹林の中に茶店を開いていたそうです。 かつて広大な寺領を誇った法住寺も、度重なる焼失や荒廃を経て、現在はこじんまりとした寺院となっています。 売茶翁は、静寂な竹林の中で、人々に安らぎのひとときを提供していたのかもしれません。

東山区:庶民の暮らしに根付いた煎茶文化

売茶翁は、京都の東山区の三十三間堂や現在の円山公園周辺を中心に活動していたようです。 東山区は、庶民の生活の場として栄え、多くの寺院や神社が点在するエリアです。 売茶翁は、当時の形式主義的な茶の湯の世界とは一線を画し、煎茶を通して人々に心の豊かさや自由な生き方を示しました。

宇治:煎茶文化の聖地

売茶翁は晩年、宇治の萬福寺に滞在し、煎茶を広める活動を行いました。萬福寺は、隠元隆禅が開いた黄檗宗の大本山で、中国風の建築様式が特徴です。 売茶翁は、萬福寺で修行した経験を生かし、煎茶の普及に尽力しました。

売茶翁が愛した京都には、今もなお彼の面影を感じさせる場所が残されています。

売茶翁の最期

売茶翁は1738年(元文3年)に64歳で亡くなりました。 最期の地は、京都の花月庵(現在の六角堂)と伝えられています。 質素な生活を送り、煎茶の精神を広めた売茶翁の最期は、彼らしい静かなものだったのかもしれません。

六角堂は、聖徳太子が創建したと伝えられる由緒ある寺院です。 華道家元池坊の発祥の地としても知られています。 六角堂という名は、本堂が六角形をしていることに由来します。 京都の中心部に位置し、多くの人々に親しまれています。

売茶翁の生涯は、煎茶の普及だけでなく、自由で質素な生き方そのものが、多くの人々に影響を与えました。

投稿者プロフィール

東叡庵
東叡庵煎茶道講師/日本文化PRマーケター
宮城県出身。
仙台の大学卒業後、500年の歴史を誇る老舗和菓子屋に入社。京都にて文人趣味や煎茶道、生け花、民俗画を学び、日本文化への造詣を深める。和菓子屋での経験を活かし、その後、日本文化専門のマーケティング会社でブランディングとPRマーケティングに従事。現在はフリーランスの茶人として活動しながら、日本文化のPRサポートや「みんなの日本茶サロン」を主宰。伝統と現代を結びつける活動を通じて、日本文化の魅力を広めている。みんなの日本茶サロン編集長。