村田珠光とは?
村田珠光(むらた じゅこう、1422年または1423年 – 1502年)は、室町時代中期の禅僧であり、「わび茶」の創始者として知られています。従来は還俗したという説が有力でしたが、近年の研究で生涯僧侶であったことが明らかになりつつあります。
珠光は、それまでの華麗な茶の湯とは一線を画し、質素ながらも心を豊かにする「わび茶」の世界を確立しました。
珠光の生涯
- 珠光は1422年または1423年に奈良で生まれました。
- 11歳の時に奈良の浄土宗寺院・称名寺に入り、出家しました。
- 20歳前に称名寺を離れ、その後については詳しいことはわかっていません。
- 応仁の乱の頃、再び奈良に戻り、東大寺近くの北川端町に庵を構えました。
- 晩年は京都に移り住み、1502年に80歳で亡くなりました。
珠光の茶の湯
珠光の茶の湯は、当時の主流であった唐物を中心とした豪華絢爛なものではなく、質素な和物を積極的に取り入れたものでした。
茶道史研究者の神津朝夫氏によると、珠光は応仁の乱以前の物語『おようのあま』に登場するような、遁世者の簡素な生活の中で自然と生まれたお茶のもてなしを原型として「わび茶」を創始したとされています。
珠光は、唐物と和物の茶道具を調和させることで、新しい茶の湯の世界を生み出しました。
珠光が好んだ茶道具
珠光が好んだとされる茶道具は数多く存在し、「珠光名物」と呼ばれています。
- 《珠光茶碗》
- 《投頭巾茶入》
- 《珠光文琳》
- 《珠光香炉》
- 《圜悟墨蹟》
- 徐熙の《鷺の絵》
これらのうち、《珠光茶碗》は、中国で作られた簡素な民窯の茶碗です。
珠光は、高価な唐物の名物道具を数多く所有していたという記録もありますが、近年の研究では、そうした記録は後世に作られた可能性も指摘されています。
一休宗純との関係
珠光は、一休宗純と親交があり、禅の影響を受けていたとされています。
一休が晩年を過ごした酬恩庵(虎丘庵)の庭園は、珠光が作庭したと伝えられています。
足利義政との関係
従来は、珠光が室町幕府8代将軍・足利義政に茶の湯を指南したという説がありました
しかし、近年の研究では、この説は否定されています。
「心の文」
「心の文」は、珠光が弟子である古市澄胤に宛てた手紙とされ、珠光の茶の湯に対する考え方がよく表れているものとして知られています。
「この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。」(この道において、まず忌むべきは、自慢や執着の心である。)
「和漢この境を紛らわすこと、肝要肝要、用心あるべきことなり。」(唐物と和物の境界を取り払うことが肝要である。)
これらの言葉から、珠光が内面的な豊かさを重視し、形式にとらわれない自由な心を大切にしたことがわかります。
珠光の門下
珠光は多くの弟子を育て、その教えは後世の茶人に大きな影響を与えました。
代表的な弟子には、古市澄胤、松本珠報、志野宗信などがいます。
珠光が確立した「わび茶」の精神は、その後の茶道の発展に大きな影響を与え、千利休へと受け継がれていきます。
まとめ
村田珠光は、「わび茶」の創始者として、日本の茶道史に燦然と輝く存在です。
珠光は、茶の湯を通して、物質的な豊かさではなく、心の豊かさを追求しました。
その精神は、現代社会においても、私たちに大切なことを教えてくれています。
投稿者プロフィール
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宮城県出身。
仙台の大学卒業後、500年の歴史を誇る老舗和菓子屋に入社。京都にて文人趣味や煎茶道、生け花、民俗画を学び、日本文化への造詣を深める。和菓子屋での経験を活かし、その後、日本文化専門のマーケティング会社でブランディングとPRマーケティングに従事。現在はフリーランスの茶人として活動しながら、日本文化のPRサポートや「みんなの日本茶サロン」を主宰。伝統と現代を結びつける活動を通じて、日本文化の魅力を広めている。みんなの日本茶サロン編集長。
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