黄檗宗の僧「売茶翁」が仙台に与えた影響

僧侶である売茶翁が仙台に与えた影響

「煎茶の祖」として広く知られる売茶翁。 元々は月海という名の僧侶であり、20代前半の4年間を仙台で過ごしたことはあまり知られていません。 今回は、売茶翁の仙台での足跡を辿りながら、彼がこの地に与えた影響について考察していきます。

参考…高遊外売茶翁 ~日本に煎茶を普及させた文化人

若き日の売茶翁と仙台

1675年、肥前国(現在の佐賀県)に生まれた売茶翁こと月海は、11歳で仏門に入り、禅の修行に励んでいました。 月耕道稔という禅僧との出会いが、月海のその後の生涯を大きく変えることになります。 月耕は、売茶翁が22歳から26歳までの4年間、師事した禅僧です。

当時、月耕は仙台の万寿寺に住しており、月海は月耕を求めてこの地を訪れました。 月耕は厳しい中にも温かさのある人柄で、月海は禅の教えだけでなく、茶の湯や書画など、様々なことを学びました。 月耕自身、煎茶を愛し、弟子たちにも振る舞っていたと言われています。 月海が後に「煎茶の祖」と呼ばれるようになるほどの、茶に対する深い造詣を育んだ背景には、仙台での月耕との出会いがあったと言えるでしょう。

参考…嬉野市「No.3 「売茶翁」 – 嬉野市

月耕道稔の存在

月耕は、売茶翁に影響を与えただけでなく、仙台の地にも大きな足跡を残した人物です。 彼は、伊達政宗の孫にあたる伊達綱村から帰依を受け、綱村の正室・仙姫の菩提寺として万寿寺を開山しました。 万寿寺は、黄檗宗の寺院として建立され、その後の仙台における黄檗禅の普及に大きな役割を果たしました。 月耕は、仙台藩の庇護のもと、黄檗禅の教えを広めるとともに、茶道や書画など、様々な文化活動を通じて、仙台の文化振興にも貢献しました。

売茶翁の仙台での学び

月海は、月耕の元で修行した4年間、禅の精神を学びながら、茶の湯の奥深さを知ることになります。 月耕は、茶を単なる嗜好品として捉えるのではなく、禅の修行の一環として、心を整え、精神性を高めるための大切な行いとしていました。 月海は、月耕から茶を点てる作法だけでなく、茶室の空間作りや、茶道具への心遣いなど、茶の湯にまつわる様々なことを学びました。

売茶翁の思想形成

月海は、月耕から受けた影響を胸に、仙台を後にした後も禅の修行を続けながら、茶の湯の道を極めていきます。 そして、還俗後、「売茶翁」と名乗り、京都で茶亭を開き、独自の煎茶道を確立していきます。 売茶翁は、高価な茶道具や形式にとらわれない、簡素で質素な煎茶を推奨しました。 これは、仙台で月耕から学んだ禅の精神、つまり、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを重視する生き方を反映していると言えるでしょう。

売茶翁の仙台への影響

売茶翁は、仙台で過ごした期間はわずか4年でしたが、月耕道稔という師との出会いは、その後の彼の人生に大きな影響を与えました。 そして、月耕が開山した万寿寺は、仙台における黄檗禅の中心として、その後の仙台の文化や思想に大きな影響を与えました。

売茶翁自身は、仙台の地で直接的に活動したわけではありませんが、彼が確立した煎茶道は、その後の仙台にも伝わり、独自の煎茶文化を育む土壌となっていったと考えられます。

参考…読売新聞「伊藤若冲にも影響与えた「煎茶の祖」…江戸時代の禅僧・高遊外

まとめ

売茶翁は、仙台の地で月耕道稔という師と出会い、禅の精神と茶の湯の奥深さを学びました。 月耕は、仙台藩に黄檗禅を広め、万寿寺を開山するなど、仙台の地にも大きな足跡を残しました。 売茶翁は、仙台を後にした後、独自の煎茶道を確立し、「煎茶の祖」として後世に名を馳せることになります。

売茶翁が仙台で過ごした期間はわずかでしたが、月耕との出会いと、仙台の地で得た経験は、その後の彼の人生観や思想に大きな影響を与え、煎茶道という新たな文化を創造する原動力となったと言えるでしょう。

投稿者プロフィール

東叡庵
東叡庵煎茶道講師/日本文化PRマーケター
宮城県出身。
仙台の大学卒業後、500年の歴史を誇る老舗和菓子屋に入社。京都にて文人趣味や煎茶道、生け花、民俗画を学び、日本文化への造詣を深める。和菓子屋での経験を活かし、その後、日本文化専門のマーケティング会社でブランディングとPRマーケティングに従事。現在はフリーランスの茶人として活動しながら、日本文化のPRサポートや「みんなの日本茶サロン」を主宰。伝統と現代を結びつける活動を通じて、日本文化の魅力を広めている。みんなの日本茶サロン編集長。